ヘレンド 【ウィーンのバラ】 VRH 22cmオーバルトレイ 1215 サービスプレート [71950501]
ヘレンド 【ウィーンのバラ】 VRH 22cmオーバルトレイ 1215 サービスプレート
[71950501]
販売価格: 26,910円(税込)
在庫数 7枚
商品詳細
オジア・シェープ ヘレンドの主流シェープ
マイセンの#01シェープに同じ
#0734は ウェッジウッドの ピオニーC/Sを思わす 優雅なシェープです。
ヘレンドには オジア ロカイユ リッセ エステルハージ シェープがあります。面白いのはバロックを代表する(マイセン#02 ジノリのベッキオ)をロカイユ(ロココ)と名付けています。ネオクラシック時代創窯のヘレンドにあっては 多分 時代を読み誤ったのでしょう? もしくは 歴史を古く箔付けするのに バロックでは誇張が過ぎるし ロココどまりにしたのでしょうか? 1部学者に ロココを バロックの延長とする説はありますが バロックをロココとするのは 明らかな間違いです。素材:陶磁器
※モニターの発色の具合によって実際のものと色が異なる場合があります。サイズ:22cm
素材:陶磁器
※モニターの発色の具合によって実際のものと色が異なる場合があります。
入荷しました。
当店のお品は 総て 現地在庫を漁らず(現地では B品の販売があり その混入を避けるため) 欧州代理店を通じて 各メーカーに 発注しております。このお品も 去年の夏の終わりに 発注したお品です。
ヨーロッパ大陸のバラは ウィーン様式が元祖で 花と茎枝と葉が自然に描かれ ロココに乗り遅れたマイセンでも 同列です。 島国英国は 連ねたバラの両端に葉を添え花のみの美しさを引き立てるのが主流で 大陸とは1線を画しております。
ウィーン様式 大陸のバラ
島国英国 連ねたバラ
ウルムの戦いは、1805年10月 バイエルン公国領(現ドイツ領)シュトゥットガルト近郊の町ウルム郊外で、ナポレオン・ボナパルト率いるフランス帝国軍(大陸軍)がマック将軍率いるオーストリア軍を破った戦いである。機動力のみで勝利したナポレオンは、この戦役全体で5万の損害を与えることに成功した。11月、フランス軍は既に放棄されたオーストリアの首都ウィーンに入城した。
ロシア軍は戦わずしてウィーンからチェコへ退却し、神聖ローマ皇帝フランツ2世もチェコのオルミュッツに逃れた。オルミュッツに集結した軍団は、イタリアから北上してくるカール大公の軍を待つことになった。フェルディナンド大公率いるオーストリア軍一万八千もプラハに展開していた。オーストリア軍には集結させると十万近い軍団がまだ健在であった。ウィーンにいるナポレオンを北と南から挟撃しようとした。
この連合軍の動きに対してナポレオンは先制攻撃を加える。ボヘミアに軍団を進軍させてオーストリア=ロシア連合軍とで対峙をした。ナポレオンの手元には六万五千の手勢しか残っていなかった。11月29日にナポレオンは休戦交渉を開始した。これは自分が弱気になっていると連合軍に思わせる芝居であった。このナポレオンからの講和の申し入れに若いアレクサンドルはすっかり気を良くして、連合軍は決戦を急ぐというナポレオンの思惑にすっかり乗ってしまい、戦いの火ぶたが切られた。12月1日、ロシア軍はブライツェン高地を攻撃してこれを奪った。アレクサンドル1世はフランス軍の脆弱さに調子にのり、ますます油断をした。
1805年12月 アウステルリッツの戦い フランス皇帝ナポレオン1世、オーストリア皇帝フランツ1世(神聖ローマ皇帝フランツ2世)、ロシア皇帝アレクサンドル1世の3人の皇帝が参加したことから「三帝会戦」とも呼ばれる。
アウステルリッツの戦い「三帝会戦」
連合軍は まんまとナポレオンの作戦の乗せられる形となり ついには南の凍結したザッチャン湖に向かって敗走を始めた。ナポレオンは凍った湖に砲撃を浴びせ、連合軍兵士は冷たい湖の中に次々と沈んでいった。
午後4時ごろまでに連合軍の組織的抵抗は完全に終わり、フランツ帝はその日のうちにナポレオンに降伏。アレクサンドル帝はロシアへ逃げ帰った。連合軍は一万六千の死傷者と、三万の捕虜を出して壊滅した。フランス軍は千三百の戦死者と七千の負傷者を出したが、フランスの圧倒的勝利で終わった。
ナポレオン戦争により ヨーロッパ中が 疲弊する中 ハプスブル家も埒外たりえず 衰退を同じくし それに連なるウィーン窯も 1864年 120年の幕を閉じる事になりました。ヘレンドは ウィーン窯のオールドウインナーローズ(ウィーン宮廷専用)に代わり ウィーンのバラを ご下命され 制作を引き受けております。第1次世界大戦により ハブスブルグ王家が退位するまで ウィーンのバラは 王家御用達で 一般には 禁じられておりました。
オジア・シェープ ヘレンドの主流シェープ
マイセンの#01シェープに同じ
#0734は ウェッジウッドの ピオニーC/Sを思わす 優雅なシェープです。
ヘレンドには オジア ロカイユ リッセ エステルハージ シェープがあります。面白いのはバロックを代表する(マイセン#02 ジノリのベッキオ)をロカイユ(ロココ)と名付けています。ネオクラシック時代創窯のヘレンドにあっては 多分 時代を読み誤ったのでしょう? もしくは 歴史を古く箔付けするのに バロックでは誇張が過ぎるし ロココどまりにしたのでしょうか? 1部学者に ロココを バロックの延長とする説はありますが バロックをロココとするのは 明らかな間違いです。
1864年閉窯の大先輩ウィーン窯の 受け入れは 絵のみ (金緑彩パセリ文ワインリーフetc.) で シェープは デコラティブな貴族趣味を旨とする ヘレンドにあっては 奇を衒わぬ機能性を 旨とする ウィーンとは 相容れず その影響は見られません。
本来 ハンガリー国ですから 東洋の真珠と謳われた 美しい都 ブタペストのバラと 名乗るところ ハプスブルク家の 銘窯ウィーンの代表作 ウィーンのバラを名乗ることを 許されました。当時 ウィーンはヨーロッパ一の 文化香る 憧れの都でした。
モンゴリアン・フン族が 一時 ヨーロッパを席捲しました。ハンガリーを主要領土とする 初の独立国家を 打ち立てました。 やがて ゲルマン等に 押し返されるのですが ハンガリーは フン族が踏みとどまって 建国した 数少ない国です。(現ハンガリー第三共和国は ウラル山脈を起源とする マジャル人の896年をもって建国としている。いかに調べても マジャル人がハンガリーに移住してきた頃で 建国とする根拠が判らないのです。当時 ハンガリーでは最大でも マジャル人48.1%で過半数に及んでいない。
(「血の伯爵夫人」バートリ・エルジェーベトを調べていて判ったのは ハプスブルグ王家からの独立を ハンガリーのマジャル貴族達が 血を購って勝ち取った事です。 彼らは建国の歴史的正当性を ハンガリーへの登場にまで遡ったと理解しました。)
10世紀末に即位したハンガリー人の君主イシュトヴァーン1世(マジャル人の大首長)は、西暦1000年に本格的にキリスト教(カトリック)に改宗し、ローマ教皇からハンガリー王の戴冠を受け、西ヨーロッパのカトリック諸王国の一員であるハンガリー王国(アールパード朝)が成立した。現ハンガリー第三共和国のヘレンドは 1996年を 建国1100年記念年として 清の花籠と カーニバルフィギュアを発表しました。)マイセンのシノワズリのコピーから やがて オリジナリティー・シノワズリへの発展は フン族の末裔の 血がなせる業でしょう。
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